闇に謳えば


第二章
1


 オリアーノ大陸北アズール山脈の中腹にその城はあった。
 かつて不死鳥の国と呼ばれた騎士大国アズウィル。
 切り立つ崖の上に建てられた城は、事実上難攻不落の城として大陸一の高山に腰を下ろした。
 グランナイトと呼ばれる精鋭騎士たちは、燃える真紅の鎧にはためく不死鳥の戦旗を掲げ、圧倒的力を持って戦場に君臨した。その姿はまるで炎より生まれ出る不死鳥のようであったと、当時を知る者達は鼻息荒く語る。
 彼らは、かの魔族すら打ち払う力を持っていた。身体に刻まれる刻印は、絶対強者の証であった。
 誰もが憧れ、心酔し、そして褒め讃えた。
 しかし。
 30年前のことである。不死鳥の伝説は、唐突に終わりを告げた。
 突如として現れた魔王軍に、アズウィルはたった3日で滅亡の日を迎えたのである。
 かの騎士大国が何故たった3日で滅ぼされてしまったのか。各国でその理由について、何度も議論が繰り返された。無論、議論そのものにはなんの意味もない。アズウィルが滅びた理由を知ることで一時の安寧を求めようと、彼らは必死に理由を探った。
 長い議論の後、逃げ延びてきた幾ばくかの商人たちの情報より、彼らはようやく一つの結論に至った。
 ――裏切り者がいたのだ、と。

 アズウィルと呼ばれていた国は、今は魔王軍の拠城と化していた。たった一人の手によって半壊まで追いやられたはずの城は、滅んだことがわからない程見事に修繕され、もはや別の国と言っても過言ではない。
 城の一角、訓練場。魔族の根城であるその場所に、ただ一人、人間の男がいた。
 整った精悍な顔立ちをプラチナブルーの髪で飾り、深緑色の双眸は正面の案山子を鋭く見つめている。
 ウェスト=セルナグ。
 人間であるにも関わらず魔王軍に名を連ねるこの男は、30年前、アズウィルの精鋭<グランナイト>に所属しながら、国の滅亡を手引きした――そう、裏切者である。
 彼はシャツ1枚という、まだ雪の解け残る山中においては、些か不釣り合いな出で立ちをしていた。
 顕になった彼の左腕に、無造作に描かれる刻印。ひときわ異彩を放つそれは魔刻と呼ばれ、アズウィルのグランナイト達が最強を誇る一端となった、強者の証だった。
 彼が幅広の剣を上段に構えると、左腕の刻印が熱を帯び、赤黒く刻まれた模様が禍々しく発光する。
「――はっ!」
 息を吐き出す音と共に、袈裟に剣を振り下ろす。その間数瞬。真っ二つになった案山子が、切り口と同じように滑らかに地面へと落ちていった。
 ドサリ、と音を立てて落ちた残骸を見やり、ウェストは一度静かに息をついた。
 山の冷たい空気が、左腕の熱を沈めていく。
「……そろそろか」
 剣を鞘に戻し、彼は空を仰ぎ見て独りごちた。

 脚甲冑を打ち鳴らし城内を行くと、魔族達の好奇と憐憫の視線に晒された。
 魔界に住まう彼らにとって、人間の存在は珍しいのだろう。
 横を通り過ぎる度に交わされるヒソヒソという声は、決して心地の良いものではない。
 ウェストの魔王軍における立場は、この城を預かる指揮官だ。いくらアズウィル陥落の立役者であるとはいえ、人間である彼には破格とも言える高待遇だった。
 魔界の一国を率いる王の中でも、カインはとりわけ実力主義に徹底した王である。ウェストがカインより役を賜ったということは、つまるところ人間である彼が魔族よりも上であると認めているのと同義。実力を称賛される一方で、それを面白くないと思う者たちも決して少なくはない。
 生半可な気持ちで、今この場にいるわけではないが、それでも心は摩耗していく。
 ようやく部屋にたどり着き、扉を閉めると、ウェストは大きなため息をついた。
「……そうゆっくりもしていられないか」
 ウェストは静かに頭を振ると、部屋奥の鎧に手を触れた。ピカピカに磨き上げられたその鎧は、深い漆黒色をしている。これは、カインより十数年前に贈られたもので、わざわざ魔界の鍛冶屋に作らせた特注品らしかった。指揮官の肩書があるとはいえ、よくもまぁ一人の人間に対しここまでするものだと、鎧を見る度に感心する。
 しかし、その待遇とは裏腹に、ウェストの心は焦燥感で満たされていた。
 カインが魔界より舞い戻ってから既に2か月が経過しているが、ウェストは今日この日まで彼女の姿を確認するに至ってはいない。まさにこれから30年ぶりの謁見が許されたところである。
 ルキやラウルが、既に各国への侵攻を開始しているにも関わらず、自分は未だに城内での待機を命じられており、如実に感じられる信頼関係の差は、ウェストへ恐怖と苛立ちを植えつけることとなった。
 ――これでは自分は何のために、真紅の鎧を脱ぎ捨てたのかわからない。
 ちりちりとした胸の締め付けを振り払うように、ウェストは謁見の準備を始めた。その直後。
「……グリントか」
 いつの間に部屋に入ってきたのだろうか。扉の前に、バトラーの出で立ちをした若い男が立っていた。
 金色のうねった髪を横に纏め流し、ほっそりとした色白の顔は、美形と言うにふさわしい。
 グリント=シュトラール。
 彼は、ウェストが城を任される際に、世話役として置かれたバトラーである。世話役と言えば聞こえはいいが、要は体のいい監視である。
 この男、その名、輝き《グリント》とは対象的に存在感がなかった。まるで霞でもあるかをのように、彼は唐突に現れ、そして気がつけば姿を消している。最初の頃は戸惑ったものであるが、さすがに30年も経てば慣れるらしい。今やすっかり驚かなくなってしまった。
 ウェストは、彼に一瞥をくれると、背を向けたまま黙々と磨き上げられた漆黒の鎧を順に身につけていく。
 グリントは何も言わず、無表情にその様を眺めていた。
 無言。
 かちゃかちゃと金具の音だけが部屋に響き渡る。
 あらかた鎧を身につけ終わり、終わりに手甲を止めようというところで、霞のバトラーははっきりと存在を示すように言った。
「カイン様がお呼びです」
 ウェストは振り向かず、最後の金具をバチリと止めた。

「来たか」
 扉を開いたウェストを迎えたのは、魔王その人だった。外を見ていたらしい彼女は、バルコニーからゆっくりとこちらを振り返ると、月のような金色を細める。
「久方ぶりだな、調子はどうだ」
 王座に悠然と腰を下ろし、カインはウェストに尋ねた。
 30年ぶりだというのに、彼女の姿は当時から変わっていない。種族の差によるものと理解していても、頭が経過した時間を勘違いしてしまう。
「今のところ各地の情勢は順調かと」
 ウェストはカインの前に跪くと、そう答える。
 カインが地上に舞い戻ってきてから早2ヶ月。先日のアースウォリアへの奇襲から程なくして、各国への侵攻が始まっていた。ルキは魔法都市アルカディアへ、ラウルは港町マリーノ、ロジンはジュノン大陸の工業都市ウラズールを侵攻。今のところ届いている知らせでは順調であるとのことである。
 彼の回答に、カインは少し面を喰らったようだった。ふ、と口元を緩めてから頬杖をつくと、
「そうではない、お前の身体のことだ」
 と再度尋ねる。
 意図を読み違えていたことに気づき、ウェストははたと目をそらす。それからもう一度思案を潜らせ、ややしばらく閉口した。
「……特段変わりなく過ごしております」
 アズウィル滅亡から30年。普通の人間であればとっくに50を超えているであろう年月にも関わらず、彼は未だ20代の容姿を保っていた。
 ――闇の呪法。
 禁呪とも謂われる隷属の魔法である。これを受けた者は術者により心臓を握られるが、対価として術者が死ぬまで年を取ることはない。
 ウェストはかつて、カインに忠誠の証として心臓を差し出し、その結果、今もなお当時と変わらぬ姿を得ることとなった。彼の左胸には隷属の刻印が描かれ、彼女を裏切れば相応の末路が待ち受けている。
 禁呪ともなれば、何かしらの形で体を蝕むことも十分考えられる。
 おそらくカインはそれについて確認したかったのだろうと、先ほどの返答を恥じながらウェストは答えた。
「そうか、それならばよいのだ。その分だと魔刻との相性もそう悪くはなさそうだな」
「はい、今のところ良好です」
 左腕と左胸に刻まれた印は、どちらもウェストにとっては力の証であるが、両者ともに禁忌を侵して手に入れたものである。そんなものが二つも刻まれているのだ。何かしら悪影響があってもおかしい話ではない。
 そこまで聞いて、カインはようやく安心したようだった。自身が与えた漆黒の鎧を纏う騎士を見やり、しかし、今度は一転。品定めするかの如く、彼をねめおろす。
「膝を折り、首を垂れる。如何にも人間らしい敬意の表し方だな」
 感情のない平坦で冷たい声だった。
 ウェストは思わず肩を震わせる。咄嗟に声が出てこず、一呼吸遅れて頭を下げた。
「申し訳――」
「よい」
 すぐさま彼を制止し、カインは喉の奥でくつくつと嗤う。
「知らぬのであれば仕方あるまい、なぁ、ウェストよ」
「はっ……魔族の作法、不勉強でございました」
 主の冷たい視線に、心臓がぎゅっと握りしめられるような感覚を覚え、冷や汗が背中を伝った。
「そういえば」
 そんな彼の様子を知ってか知らずか、カインは更に表情を変え、今度は嬉しそうに城を見まわす。
「見事に修繕したな」
 30年前カイン一人の手によって半壊したこの城は、今や見る影もなく見事に修復されている。
 アズウィル滅亡後、本来であれば魔王軍はそのまま各国への侵攻を始める予定だった。しかし、思わぬタイミングで魔界で大きな戦が起こり、カインは魔界へと退去を余儀なくされたのだった。
 その間、残された一部の兵と共にこの城を守っていたのが、ウェストである。
 人間達も突然静まり返った魔王軍に不気味な気配を感じていたのか、幸いにも戦になることはなく、主な仕事といえばこの城の修繕だった。
「魔界の城作りの技術が素晴らしいものだったので、ほとんど困りませんでした。何箇所か隠し通路を作り、緊急時にも備えております」
「さすが、抜かりないな」
 褒め言葉に恐縮ですと頭を下げると、カインは満足げに頷いて見せる。先ほどの無礼など既に忘れたかのような態度だった。あまりの温度差にウェストは困惑を隠しきれず、素直に喜んでいいものか思案する。
 しかし、カインの態度は尚もウェストを悩ませることとなった。
「過ごしづらくはないか」
 冷や水を浴びせるような問いに、ウェストは顔を強張らせた。
 答えはノーだ。多くの魔族達にとって、人でありながら魔族に隷属し、人でありながら人を滅ぼすウェストの存在は異物であり、そこには大きな隔たりがある。
 30年共に過ごした兵とようやく打ち解けてきたところだったが、カインの帰還によりその数は10倍以上も増え、最早誰が味方なのか判別ができない。
「……特段変わりなく過ごしております」
 間をおいて、ウェストはそう答えた。
 真紅の鎧を脱ぎ捨て、漆黒の鎧を選んだことを後悔をしているわけではない。まして、今更人間へと戻ることが不可能なことも十分すぎるほど理解しているつもりだ。
 ――せめて、貴方が信頼してくださるのならば。
 そんなことを言えるはずもなく、ウェストはかの影の薄いバトラーの存在を恨めしく思った。
「それは何よりだな」
 ダンと、カインが右足を床に打ち鳴らす。
 びくりとウェストが顔を上げると、二つの金色が全てを見透かすように冷たく漂っていた。カインは彼の言葉を肯定も否定もしない。視線の膠着だけがややしばらく続いた。
 それは数分だったのか、もしかすると一瞬の出来事だったのかもしれない。既にウェストの喉はカラカラで、その時が終わるのを待ち遠しく思った。
 すると、不意にカインが身体を乗り出した。
「さて、戦の話をしようか」
 女性としてはいささか低い声で、漆黒の魔王は言った。
 そうだ、自分はこれを待っていたのだと、ウェストは一度恐怖を置き去りにして、背筋を伸ばす。
「お前には、フリージアを侵攻してもらいたい」
「フリージア、ですか」
 一度復唱をして、ウェストは小さく唸った。
 フリージア。このオリアーノ大陸の南東に位置する通称花の都。豊かな自然に囲まれ、兵力はさほど所持をしていないものの、農業が盛んな為、事実上各国の兵糧庫の役割を果たしている。
 戦において兵糧攻めはセオリーである。フリージアを落とせば、兵糧に切迫する国が続出するであろうことは想像に固くない。しかし。
「何故、アースウォリアを落とさないのですか?」
 ウェストの疑問は至極当然のものであった。
 アズウィル、アルラードと、最強を冠する軍事国を二つ落とした今、魔王軍にとって脅威となりうる国はアースウォリアのみと言っても過言ではない。
 確かに先日の急襲でラウルとルキが負傷して帰ってきてはいるようであるが、個人の保有する力と国力は別物だ。
 アルラードよりも軍事力に劣る国である以上、わざわざここで兵糧攻めに転じる必要があるようには思えない。
 ウェストの問いに、カインは不意に立ち上がると、彼の前で右膝をつけてかがみこんだ。
「知りたいか?」
 突き刺さるような金色から放たれる愉悦。冷たい月はまるで全てを見透かすかの如く、無遠慮にウェストの深緑色をのぞき込んだ。
「いいえ……」
 辛うじて絞り出した声は掠れきっていて、返事としては意味をなさない。
 カインは指でくいと彼の顎を引くと、徐に顔を近づけた。互いの吐息が間際で感じられるこの距離。自分の呼吸は不自然ではないかを確認するかのように何度も呼吸を繰り返す。その行為が一層不自然さを増しているのだが、今の彼にそれを気づくだけの聡明さは存在しなかった。
「お前に策を授けておく」
 そう言い、カインはそっとウェストの耳で何かを囁いた。耳打ちされた策に、ウェストは困惑して主を見つめる。
 カインは何も言わず、相も変わらず楽しそうに口元を歪めた。まるでこれ以上説明を必要としていないと告げるように。
 なおも。
 彼の心を弄ぶかのように、顔を寄せ、
「何も戯れにその刻印を与えたわけではないのだ。……期待しているぞ、ウェスト=セルナグ」
 目の前の主の言葉は、どこまでも闇に包まれ、どこまでも冷たい響きを帯びている。ウェストは怯えた表情で彼女の表情を見た。
 にぃと歪んだ口元が鮮烈に映る。
「……ご随意に」
 乾ききった喉から絞り出すように答え、彼は改めて深々と首を垂れた。人間の、人間による、人間の為の所作であった。
「行け、出陣せよ」
 立ち上がった主に促され、ウェストは弾かれるようにして王間を後にした。
 ばたん、といくらか粗雑に扉が閉まる。
「……茨の道よな」
 そんな彼の背をカインは眉根を寄せて見送った。

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