闇に謳えば


第一章
8


「こんばんは、お嬢さん。良い夜ですね」
 風の吹き抜ける夜。最早城の一等地とも言える場所で、夕陽色の髪をした老紳士は、実にたおやかに微笑んだ。
 背後には、レヴィアントの鐘が、一日の最後の仕事を控え、沈黙を保っている。
 アースウォリア王女付きのメイド兼護衛、アリーシャ=ラインハルトは、目の前の老紳士をキツく睨みつけた。
 ほんの数刻前のことである。突如夜半に訪れた無礼な訪問者を出迎え、まさに戦闘態勢をとろうとした矢先、気がつけばこの場所に飛ばされていた。
 アースウォリア城の屋根。年に一度の大掃除の時ですら、登ったことのない場所だ。
 いつもより心なしか近く見える月は、仄白く二つの影を照らしている。逆光でよくは見えないが、紳士の紫紺色の瞳だけは、妙に印象的に映った。
「恐れ入りますが、わたくし仕事を控えておりますので、そこをおどき下さいまし」
 背中の槍を構え、アリーシャは出来る限り丁寧に告げた。口調とは裏腹に、彼女は緊張の糸を巡らせている。転移魔法を容易く使うような相手である。魔法に詳しくない彼女でも、高位の術師であることはすぐに想像がついた。
 そんなアリーシャの言葉に、夕陽色の老紳士は心底残念そうな表情で、
「おや、つれませんねぇ」
 とため息をつく。
 これからいざ滅ぼそうとしている相手への態度としては、あまりに友好的である。しかし、それ故に何を考えているか読めず、アリーシャの表情は一層強張っていった。
 突然、老紳士がポンと手を打った。
「これはこれは失礼致しました。私としたことが、大切なことを忘れていたようです」
 そう思い出したかのように呟くと、かぶっていた帽子を手に、彼は恭しくお辞儀をして見せる。
「わたくし、魔界シェルヘイム国王……あぁ、こちらでは、魔王と言った方がわかりやすいでしょうか。魔王カインの配下、ロジン=ヘーメラウと申します。以後お見知りおきを」
 アリーシャはなんの脈絡もなく始まった自己紹介にややしばらく考えてから、スカートの裾を上げてお辞儀をして見せた。
「アースウォリア王女付きのメイド、アリーシャ=ラインハルトにございます」
 何故敵に対してわざわざ名乗ったのか、自分でも不思議であった。槍は一旦屋根に突き立てており、自ら隙を見せているようなものだ。
 しかし、老紳士は満足気に頷くだけで、一歩もそこから動くことはなかった。
「アリーシャ、良い名です。挨拶のできる方は好きですよ」
 いちいち毒気の抜かれる話し方である。
「では、わたくし、先を急ぎますので」
 アリーシャが、槍を引き抜き屋根を蹴った。一瞬で距離を詰め、老紳士の顔を目掛けて槍を振り上げる。
 老紳士のモノクルの奥の瞳が、不敵な光を帯びた。老紳士は、持っていた杖から剣を引き抜くと、軽々とアリーシャの槍を受け止める。
「……仕込杖とはなかなか良いご趣味で」
「ありがとうございます。武器はスマートに持ちたいのです。貴女こそ、珍しいのでは?」
 老紳士が思い切り剣を振り切ると同時に、アリーシャは押し戻された勢いで後退する。
「珍しい、ですか?」
「えぇ、武器を常時見えるところに置いておくなど昨今では珍しいと思いまして。ただのメイドであれば捨て置くつもりでしたが、そう物騒なものを見せられては放置するわけにも参らず」
 言われ、アリーシャはハッと下唇を噛んだ。周囲への牽制の為に見せていた武器が、今回は仇となってしまった。
「ですが、おかげでこのように貴女とお話ができます」
 ひゅんと一閃で空を切ってから、老紳士は剣を杖に戻す。
 不意に、紳士の周りに黒い球体が3つ浮遊して現れた。赤く明滅しているそれは、まるでアリーシャへの威嚇にもとれる。
「紳士殿、そこをおどき下さいまし。話は後日ゆっくりお茶を飲みながらにでも」
 再度、アリーシャは槍を構えた。
「それは大変魅力的なご提案ですが、今は受けかねます」
 困った顔で紳士が答えると、その返答を合図に、アリーシャが跳躍。老紳士の真上から言を紡ぐ。
「では、交渉決裂ということで強行突破いたします」
 アリーシャの巨大な穂先を黒球の一つが受け止める。老紳士の紫紺色の瞳がモノクルの奥からギラリと覗いた。
「あまり手荒な真似はしたくなかったのですが、致し方ありませんね」
 ――黄金色の満月が、二つの影を照らし出した。

 仄暗い石畳の通路に二つの靴音が響き渡る。
 かつてない緊張感の中、クロウは国王ジゼルを連れて足早に進んでいた。
 期待を胸に通った道も、こうなってはまるで崖の上を歩いているようなものである。窓のない一本廊下であるがゆえ、シウバがやられない限りは後ろはそう心配する必要はないのだが、その分、前方から敵が来た場合に逃げ道がない。
 クロウは、ひたすら思考を巡らせていた。そういえば、座学の際に狭い場所での戦い方の説明があった気がするが、座学はかなりの頻度でサボるか寝るかをしており、ほとんど記憶にない。日々のサボりの影響がまさかこの事態に及ぶことになろうとは。今更、猛烈に後悔する。
「クロウ」
 ぽん、と突然、ジゼルがクロウの肩を叩いた。ビクリと思わず体が跳ねる。
「は、はい……」
 体をジゼルに向け返事をすると、ジゼルは穏やかに微笑んだ。
「深呼吸、しようか」
 まるで子供である。いつもであれば拗ねているところだが、この緊急時にそんな余裕はない。
 大人しく言われた通りに大きく息を吸い込み、吐く。
 それを3回ほど繰り返すと、少し頭がすっきりしてきた。
 そうだ、こういう時こそ冷静にならなくては。
「うん、よさそうだね。いいかいクロウ。こういう状況は焦った方の負けだ。まずは、状況を整理しよう」
 ジゼルの言葉を受けて、クロウはもう一度大きく深呼吸をする。
 まず、今は魔王軍の襲撃を受けている。あのラウルという男を、シウバが足止めしてくれていて、自分は王を安全なところに連れていかなければならない。それから――。
 そこまで整理したところで、クロウは、あっと声を上げた。
「何か、気づいたかな?」
 クロウは、頷いた。いくら深夜とはいえ、窓から敵が大胆に飛び込んできたのだ。他の兵たちが気づかないはずがない。それにも関わらず、ここまでくるに至って誰一人として出会っていないのだ。つまり、それが意味するのは。
「敵は既に城の中」
 しかも、近くまで来ている。5枚目の扉の奥は、入れる人間は限られるが、相応に実力のある騎士たちが守りを固めている。それが誰一人として動いていない――否、動けない状態だとしたら。
 クロウの背筋を冷たいものが走った。
「……どうしたら」
 呟いてから思わずハッとする。騎士たるもの、守るべき者の前で弱音を吐いてはいけない。左右に大きく首を振って雑念を振り払う。
 守らなければならない、騎士として。
「陛下、行きましょう。必ず、俺がお守りします!」
 確固たる意思を持ってそう告げると、ジゼルは小さく頷いた。
 そこからさらに数分。二人の前に1枚の扉が姿を現した。先ほどシウバと二人でくぐり抜けてきた扉である。これより先に5枚目の獅子の門が待ち受けている。
 クロウは、大きく深呼吸をしてから、扉に手をかけた。
 ギ、ギィ……。
 扉が重苦しい音を立てて開く。
「……っ!!」
 扉の先に広がった光景に、クロウは絶句した。むせ返るような血臭に、床には先輩騎士たちが何人も倒れている。慌てて駆け寄るが、皆すでに絶命しているようだった。
「……?」
「これは、ひどい……」
 クロウが何かに気づいたその横で、ジゼルが痛ましげに呟いた。
 ――と。
 二人は同時に、通路の奥に視線を向ける。足音だ。
 カツリカツリとその足音はこちらへと向かって来ている。
 クロウが、ジゼルを庇うようにして剣を構えた。
 姿が見えず、敵が味方かすらわからない。クロウの緊張はピークに達していた。
 壁の炎が揺らめく。
 カツリカツリ……。
 ついに、足音の持ち主が炎の下へと姿を現した。
「ああっ!」
 それは、門を守っていた先輩騎士だった。彼は、二人を見つけると安堵した表情で声を上げる。
「陛下、よくぞご無事で!」
 銀色のプレートメイルを身につけた彼が、慌てて駆け寄ってくる。
 ――刹那。
「陛下、お下がりください!」
 クロウが、先輩騎士めがけて剣を振り抜いた。剣は顔面に思い切り命中し、先輩騎士が兜と共に吹き飛ぶ。
「……クロウ、これは一体?」
 ジゼルの困惑した声に、しかしクロウは先輩騎士を睨みつけたまま動かない。
 床に投げ出された先輩騎士は、しばらく倒れていたが、やがて首を鳴らしながら起き上がると、うーんと首を傾げた。
「あれれ、完璧だと思ったんだけどなぁ」
 それは、少女の声だった。
「君凄いね、褒めてあげるよ」
 先輩騎士の姿をしたそれは、愉快げに笑ったかと思うと、
「でも、やっぱり鎧は重いなぁ」
 その姿を瞬く間に少女へと変えた。
 二人は、何が起こったかわからないという表情で少女を見つめた。
 幼い顔をしたその少女は、青い髪を2つに結び、頭にバンダナを巻いている。両頬には4本の角のような刻印が刻まれ、彼女が人ならぬものであることを示していた。
 双眸の朱色を好奇に輝かせ、少女はクロウへと歩み寄った。
 あまりにも警戒心のないその行動に、クロウは反応を忘れ、近づくことを許してしまう。しまったと思ったその時には、少女の顔は目の前まで迫っていた。ニィと笑った口元から犬歯が覗く。
「ねぇねぇ、なんでわかったの?結構自信あったんだけどなぁ」
「それは……」
 敵がここまで近いのだ、攻撃すればいい。そう思う心とは裏腹に、体が動かない。張り付いた喉を潤すように、ゴクリと生唾を飲むと、クロウは言葉を発した。
「誰も武器を抜いていない……から……」
 先ほど、先輩騎士達の亡骸を見た時に、クロウは誰一人として武器を顕現していないことを不自然に思った。
「あと、みんな、きれいすぎた」
 そして、彼の嫌疑を強めたもう一つの要素。倒れている全員が、争ったような痕跡が何一つ見られなかったのだ。いくら敵が強かったとしても、彼らは アースウォリア屈指の騎士達である。こうまで無抵抗な死に方はしまい。
 一閃。クロウが、剣を横薙ぎに払う。しかし、その一撃は空を切り、少女は軽やかに後ろに退避した。
「なるほどねぇ。次はもう少し殺し方も考えなきゃ」
 呟きながら、少女は何をするでもなくニコニコとこちらを見て笑った。
 クロウは必死に頭を働かせる。自分はともかく、何としてでもジゼルだけは助けなければならない。
 方法は3つ。
 引き返す、なんとか隙を見つけて入り口まで逃げる、そして3つ目は、――目の前の敵を倒す。
「この前よりは、楽しませてもらえるといいなぁ」
 両手を大きく広げ、少女がほくそ笑んだ。
 どちらにせよ、目の前の脅威を取り除かなければ、逃げることもできない。クロウは意を決し、剣を構えた。
「クロウ」
「大丈夫です、必ず陛下をここから助け出してみせます」
 ジゼルの心配をよそに、クロウは自身を奮い立たせる。
「ふぅん、言うねぇ。そこまで言うんだったら、楽しませてね!」
 少女が石畳を蹴った。クロウは、上から飛んでくる拳を剣で受け、そのまま振りぬくと、勢いを利用して少女が宙を舞った。体を逆さにひねり、天井を蹴る。先ほどよりも勢いもスピードも増した攻撃に、クロウは耐え切れず思い切り吹き飛んだ。
 ガンという音と共に、視界がぐらつく。
「なぁに、その程度?見破ったから多少はやるのかと思ったんだけど」
 壁に叩きつけられたクロウを見ながら、つまらなそうに少女がため息をついた。
 クロウは、剣を支柱に立ち上がるが、たった一撃を食らっただけで、すでに肩で息をしている。
 せめて、陛下が逃げられるだけの隙を作らなくては。
 灰色の瞳で少女を睨みつけ、剣を片手に走る。下から放った剣閃はあっさりと避けられ、逆に下から蹴りあげられる。顎に思い切り入り、脳震盪で視界が歪む。続けざまに掌底。頭を思い切り壁に叩きつけられ、そのまま壁にぎりぎりと押しつけられる。
「もしかして、新兵?なんで王様の護衛にこんなのついてんのかなぁ。はっきりいって、邪魔」
 そのまま押しつぶす勢いで、少女は不快感をぶつける。息がまともに出来ない。
 段々と朦朧としてくる意識の中、クロウは思わず目を見開いた。
「黄金の獅子よ!」
 咆哮と同時に、ジゼルが赤い装飾が施された剣をルキに向かって叩きつけた。
 不意をつかれたルキが右腕を切りつけられ、後退する。血しぶきがいやにスローモーに見えた。
「将来有望な若い子に、あまり乱暴をしては欲しくないね」
 クロウを起こしながら、ジゼルは静かに告げる。
「あまりこういう戦いは好きではないのだけれど、こうなっては仕方ない」
 そうにっこりと微笑むと、ジゼルはまっすぐ少女を見据え、細身の長剣を構えた。
「へぇ、王様直々なんて、珍しいじゃん!」
 クロウを完全に無視し、少女が顔を楽しげに歪める。腕の傷など気にすらしていないようだった。
 なんとか呼吸を整えながら、クロウはジゼルの横顔を見た。彼の口が小さく何かを紡いでいる。
「楽しませてよね!!」
 少女の拳が眼前に迫った刹那、彼女の周囲にいくつもの魔法陣が描き出された。
 ――捕縛の魔法である。
「なっ!」
 魔法陣からいくつもの糸が現れ、少女の体を拘束していく。
「私はあまり小競り合いとかは好きではなくてね、申し訳ないが、しばらくそのままでいてもらえるだろうか」
 そう告げると、ジゼルはクロウを肩を抱き、横をすり抜けて行く。
「あっ、こら、待てー!」
 じたばたと四肢を動かすが、魔力で練られた糸はそう簡単には解けない。
 少女の悔しげな声が、狭い廊下にこだました。

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