闇に謳えば


第一章
9


 屋根の上の攻防は、既に1時間近くにも及んでいた。
 ――強い。
 アリーシャは、老紳士を前にそう思った。何度も死角を狙って攻撃をし、どれもが確かな手応えを感じる一撃だったと自負している。
 しかし、老紳士はそれらの全てをものの見事に避け、時には防ぎ、今もまだ平然と穏やかな笑みを浮かべていた。
 彼自身が幻術の可能性も疑ったが、彼の剣を受けた時の感覚から、その可能性は薄いように思う。だとすれば、完全に実力の差だ。悔しいが、アリーシャは、その事実を認めざるを得なかった。
「いやはや、お見事です」
 老紳士が、感心したように手を打った。
 アリーシャは思わず下唇を噛む。今この状況で褒められても、喜ぶどころか惨めさが増すだけだ。
 一刻も早くレイアの元へと戻らなくてはならないのに、これでは埒が明かない。
 ふぅ、とアリーシャは構えを解いた。ここまで戦ってきて、一つだけわかったことがある。目の前の老紳士は、自分を倒すつもりは毛頭なく、おそらくただの時間稼ぎだ。つまり、突破をしようとしない限りは、攻撃して来るつもりもない。
 その様子を見て、老紳士はにっこりと満足気に微笑んだ。
「物分りの良い方です」
 彼は、周囲に浮かぶ3つの黒球を順に確認しながら、ふと思い出したように尋ねた。
「お名前、アリーシャ=ラインハルト、とおっしゃましたね。ラインハルト家というのは、やはり騎士のお家柄で?」
 アリーシャが、困った顔でしばらく黙った。この手の質問は今に始まったことではない。しかしながら、毎回どう答えていいものかと頭を悩ます質問なのである。
「……我がラインハルト家は、代々このアースウォリアの騎士団長を努めております。今は、兄が」
「左様でしたか。しかし、なぜ貴女のように腕のある方がメイドなど」
「面倒なお家事情というものがありまして」
 そこまで言うと、さすがの老紳士も聞くのを躊躇ったらしく、ひとつ頷いてから、
「そうでしたか。おかげで合点がいきました。……槍の腕はさることながら、警戒心も勘も素晴らしいですね。無理に踏み込んでくるようであれば、灰にしているところでした」
 と平然と述べた。その穏やかな口調とは想像もつかないような苛烈な内容に、アリーシャはゾッとする。判断を誤っていれば、今頃自分はこの世にいないかもしれない。
「おや、これは」
 ふと、紳士が何かに気づいたように、声を上げた。
 彼の周りの黒球が赤く明滅している。
「アリーシャ殿、今宵はそろそろ去らねばならぬようです」
 モノクルを涼しげに直し、静かに告げると、彼は韻律を紡ぎ始める。その間数秒。アリーシャが防御の構えをとった瞬間、凄まじい勢いで黒い火球がアリーシャの横を通り抜けた。
 ゴーン……
 通り抜けた火球がレヴィアントの鐘を打ち鳴らす。
「大変楽しい夜を過ごさせて頂きました。また、お会いしましょう」
「お待ちを!」
 別れの挨拶を告げる紳士をアリーシャが引き止める。
「もう一度、お名前を」
 問いに、夕陽色の老紳士はかぶっていた帽子を胸にあてると、
「ロジン=ヘーメラウでございます」
 深々とお辞儀をして闇へと消えていった。
 それを呆然と見送った後、アリーシャは主君の無事を確認すべく、即座に月夜を駆けていった。

 月に照らされたその少女は、どこか儚げでとても美しく見えた。
 宝石のような青い瞳、まるで絹のように白い肌、指通りの良さそうな髪。かつて、王族すらもその容姿を羨んだというのも、今なら納得ができるような気がする。
 その、言葉すらなければ。
「アースウォリアの王女様。私は貴女に、復讐をしに参りました」
 エルフの少女は、開口一番そう告げた。
 その場にいる全員が、皆疑問符を掲げたのは気のせいではなかったと思う。言われた張本人であるレイアも、心当たりがないという表情をしている。
 御年16のレイアは、この国をほとんど出たことはないし、ましてやその口からエルフという単語が出たことすら一度もない。一体何のことを指しているのか、困惑するばかりである。
「なるほど、何も知らないのですね」
 少女が、一歩足を進めた瞬間。
 ジェラルドが跳んだ。
「リュール、姫さんを守れ!!」
 怒号を上げて、ジェラルドが少女との距離を詰める。
「……邪魔しないでください」
「かはっ!」
 少女がジェラルドに向けて手を差し出したかと思うと、突風がジェラルドを襲った。韻律のない風魔法。精霊と交信できるエルフだけが可能とされる能力である。
 壁に強烈に叩きつけられたジェラルドを、蔦が縛り付ける。
「そこで大人しくなさってください」
 ジェラルドが悔しげに呻く。
 一方、リュールはその隙を見計らい、レイアの元へと駆け寄った。レイアを庇うような姿勢を取りながら、徐々に後ずさる。
「退いて下さい。痛い思いはしたくないでしょう?」
 少女が、感情のない声で言った。
 レイアがぎゅっとリュールの背中をつかむと、薄紅の少女は憎々しげに下唇を噛んだ。
「さすがは王女様。羨ましいです、守ってくれる方がたくさんいるというのは」
 皮肉げに言い、少女は右手を軽く上げる。
「大いなる大樹よ」
 少女の言葉に呼応して、小指の指輪が緑色に輝く。刹那、白い木で出来た弓が少女の手に顕現した。
「貴方が今ここでその命を捧げるのなら、他の二人には手を出さないことをお約束します」
「ふざけるな!お前なんかにレイアには指一本触れさせない!」
 その言葉にいち早く反応したのはリュールだった。
「レヴァンティア!」
 怒りに身を任せるように剣の名を呼び、その手に白銀の剣をつかむ。
 その様を見て、やはり苛ついた表情で、
「本当……羨ましい限りです。何があっても、どんな非道なことをしようとも、王族であるというだけで守ってもらえるのですから」
 少女は右手から魔力の矢を作り出すと、リュールに向けて、弦を引き絞る。
「リュール!」
 小さく震えながらレイアが一層強くリュールの服を握りしめた。
「では、まずその少年が死ぬところをゆっくりと見ていただきましょう!」
 すさまじいスピードで矢が部屋を駆ける。脳天目掛けて放たれた矢を剣でなんとか受け止めるものの、反れた刃は彼の頬を抉った。
 続けざまにもう一本、今度は彼の肩を、そして、次は左脚を。敢えて急所を外すように連続して矢が放たれる。
 矢が放たれる度にレイアは目をつむり、小さく悲鳴を上げる。
 今まで訓練でしか戦ったことのないリュールには、実践での剣の振るい方がわからなかった。剣を盾のように構え、ただひたすら、動かぬままその身に矢を受ける。
「……っ!」
 皮膚を、肉を抉る痛みに、リュールは歯を食いしばった。
 一歩でも動けば、その矢は間違いなくレイアを狙うであろう。せめて、せめて盾にならなくては。
「王女様、よいのですか?彼、死んじゃいますよ?」
 少しずつ距離を詰めながら、少女は淡々と矢を放つ。
「レイア、ダメだ!俺は平気だから!」
 心が揺らぐレイアを言葉で無理矢理押し留め、リュールは薄っすらと部屋の奥に視線をくぐらせる。
 すると、彼は意を決したように剣を床に突き刺した。
 突然武器を捨てたリュールに、エルフの少女は不可思議に首を傾げた。そんな彼女をリュールはまっすぐ見据えて、口を開く。
「魔王軍の奴だと思うから、敢えて聞くけど、なんでそんなに執拗にレイアだけ狙うんだよ。さっさと俺とルド兄殺してからの方が楽なんじゃないか?」
 肩で息をしながら、問う。しばらく沈黙し、少女は眉根を寄せた。
「今宵は、そんなことどうでも良いのです。私は、そこの王女様にしか興味ありませんから。あなた方は私がやらなくともカイン様が滅ぼして下さいます」
「カイン……」
 おそらく、魔王の名であろう単語を刻みつけるように呟き、
「理由になってない。レイアである必要は?」
 ヒュンと音を立てて矢がリュールの真横を横切る。後ろに掛かった絵画が床に落ちた。
「知りませんか?50年前のお話です。アースウォリアの王女様が、大変身勝手な理由で私達を滅ぼしたことを」
「……エルフの村か」
 奥でジェラルドが思い出したように呟く。
 50年前の王女様――レイアにとっては祖母の世代である。全く心当たりのないレイアは、不思議そうな顔でジェラルドを見る。
「あぁ、それすらも知らないのですか。本当に綺麗なものしか知らずに育ってきたのですね」
 少女の青い瞳が憎々しげに染まる。少女は弓を指輪へと収めると、さらに近くまで歩み寄った。
 リュールが慌ててレイアを隠すが、リュールの肩越しに少女はレイアをきっと睨みつけた。
「エルフの血が欲しかったそうです。たったそれだけの為に、50年前、この国の王女は我々エルフを滅ぼしました」
「エルフ?」
 そう口にしたのはリュールである。エルフであるのは理解していたものの、一つ気になっていることがあった。エルフといえば、金色の髪をしているはずである。しかし、今目の前にいる少女の髪の色は薄紅色だ。
 問いに、少女は薄っすらと笑みを浮かべた。
「血の色に」
 口の端を上げ、
「したかったのですが」
 髪の毛をそっとつかむ。
「困ったことに染まりきらなかったのです」
 その自虐的な笑みは、リュールの背中を冷たく駆けた。麗らかな容姿からは想像もつかないような殺気が少女から発せられている。
「何も知らずに平穏に過ごしていたのでしょう?どうですか、あなたの中にはそんな穢れた血が流れているのです」
 不意に、少女の手がレイアへと伸びる。リュールは、レイアと共に一歩後ずさった。
「それは過去の話だ!レイアには関係ない!!」
 可能なら、レイアにこんな話を聞かせたくない。彼女は何も知らないのだ。そして、知ったところで一体何ができるというのか。
「関係ない!?過去?!ふざけるのも大概にしろ!あの時一体どのようにして皆が殺されたか!幼い子ですら容赦なく殺されていったのに!!」
 突如語気を荒げ、少女から凄まじい風が発せられる。それは鎌鼬のように、部屋中に吹き荒び、調度品が次々に破壊される。
 しばらくして、一転。少女は表情を殺して、腰の短剣を抜いた。
 ひっ、とレイアがか細い声をあげる。
 リュールは後ろ手にレイアの手を握ると、自分の方に引き寄せた。
「まずは目の前でその男が死ぬところを指をくわえて見ていなさい!!」
 リュールにむけて、刃が振り下ろされようとした刹那。
 バチリと弾ける音と共に閃光が走った。
「……!」
 ジェラルドである。右手に雷光を迸らせ、いつの間にか蔦を抜け出した彼が、エルフの少女の眼前に迫る。
 ゴーン……
 遠く、鐘の音が響いた。
 その瞬間、薄紅の少女はその姿を消し、行き場を失った雷は奥の花瓶をひとつ割った。
「ちっ、逃げられたか」
 右腕の雷光をばちりと鳴らしてから消し、ジェラルドが悔しげに呟く。
「おう、リュール。よくやったな、見事な囮だったぜ」
 ジェラルドの笑みを合図に、リュールはへなへなと床に腰を下ろした。手のひらは汗でびっしょり濡れている。
 しかし、自分のことはどうでもいい。彼は淡い笑みを浮かべて、背後の少女を振り向いた。
「レイア、大丈夫?」
 すると、レイアは涙を溜めながら、リュールにしがみつき、何度も何度も頷いた。

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